2012年4月7日土曜日

弟子と言うもの

弟子とは・・・・?
宗教の開祖と言うのは、多かれ少なかれ、啓示を受け取ったもの、あるいは悟ったもの・・こういう要素がある。
宇宙と言うか、超宇宙というか、神と言うか、天と言うか。
それは目に見えるものではなく・・・・・心に呼びかけられた、あるいは心に響いた。ひらめいた[真実]あるいは[真理]・・・それを言葉にして、あるいは実際に行動して行いで示して、周辺の人に教えてあげる。同じ境地を味わわせてあげる。こうやって師匠と弟子の世界が現れる。
今の時代はインターネットがあり。印刷物やビデオもある。今はいとも簡単に多くの人に自分の悟ったり体験したことを伝えられる。
今でも極めて多くの人が本を書いたり。早いのはインターネットで情報を伝達している。悟ったらすぐさまツイートするらしい。
ただ昔は、情報伝達が口コミに限られていたので、周辺の人に悟りの世界を伝えて、口伝で伝えられて言った。ここに弟子の意義が大きかった。
イエスキリストはその悟りの世界を12人の弟子に伝え、その弟子たちは世界に散らばりイエスから教えられたことを身振り手振りを加えながら伝えて行った。一番弟子は「ペテロ]であった。ペテロはローマに行った。しかしローマではなく、東に行った弟子たちもいた。
弟子はその能力や個性がまちまちであるから、イエスが教えた教えも、その弟子たちによってイエスの教えの受け取り方も、理解の仕方も、またその伝え方も異なっていたに違いない。
今キリスト教というと、ローマカソリック、そこから生まれた半分アンチテーゼのようなプロテスタント。しかしこれがイエスの教えのすべてではない。エルサレムから東に行って、インドや中央アジアにその教えを伝えた弟子たちもいたのである。それが何か?

2012年4月6日金曜日

教団が形成されるまでとそれ以降

宗教団体の原初形態とは何か?
それは、教祖あるいは開祖と言われる人たちの[悟り]の世界であろう。
これはあらゆる宗教に共通する。
日本の宗教見ても、すべからくそうである。教派・教団の形成を夢見て開いた宗教は無い。
宗教が本物か偽者かを見抜く観点はそこにある。

最近までも似非宗教はたくさんあった。今ある宗教の中にもあるだろう。
ある宗派宗教も、社会的基盤や財産的なものが出来ると堕落して、本来の役目を果たさなくなることも多い。
開祖の立場から見れば[もういらないよ。却って私の願いとは異なっている。」と言うような宗教宗派もあるだろう。
かっては全盛今は衰退というのが実は本物なのかもしれない。問題は教えの内容がどうで、それがどのように継承され、発展していってるかが問題であろう。