江戸時代、徳川幕府の宗教政策は、仏教をその支配の手段として利用して来た。宗門改めや寺請制度で、民を宗教的に支配するとともに、仏教と僧侶を保護した。民衆教育の手段として寺子屋が設けられた。
徳川幕府を倒して新政府をうちたてようとした薩長政権は、大政奉還に続く[王政復古]の新政策において、これまで徳川の幕藩体制を陰で支えてきた、寺院と僧侶を排して、神道中心の国家体制を作ろうとした。そのためにはどうしても「仏」と「神」を切り離す必要があった。そのために出されたのが「神仏分離令」であった。そして、それは結果的に廃仏毀釈を伴うようになった。徳川の幕藩体制を支えてきた寺院と僧侶にはその見返りとして膨大な資金が投入されてきた。幕藩体制を否定した、新政権には、それらは斬り捨てるしかないものだったのである。
それによって奈良の大仏の開眼に、宇佐八幡の神輿が登って、神が仏を支援して始まった神仏習合の歴史と、長い皇室の仏教崇拝の歴史が断ち切られて行ったのである。
さて、明治政府は維新が成立してからも、キリスト教の禁教を解かなかった。長崎の浦上天主堂に集まった、隠れキリシタンは、再び迫害の道を歩むようになったのである。西欧社会のキリスト教文明を見てきた使節団が帰ってきて、キリスト教禁教の非を訴えることにより禁教令は解かれて行くのである。
しかし、明治新政府はキリスト教をそのまま受け入れようとはしなかった。日本の国教として[神道]を立て、西欧におけるキリスト教の役割を担わせようとしたのである。教育理念としては[教育勅語]を立てて、国家神道に不足している理念を補う形を取ろうとしたが、結局それは失敗に終わった。
世界に普及して行ったキリスト教の普遍性をと入りれる事が出来なかったがゆえに、世界から孤立し、第2次大戦の敗戦の結果ともつながって行くのである。
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